昭和四十七年五月十五日 朝の御理解
X御理解 第十三節 「神は向こう倍力の徳を授ける」
一生懸命に神様に向かう、神様と言うて一歩でも神様の方へ足を向けて来たらおかげをやると、神様の方へ一歩でも足を近づけるという気になればおかげが受けられる この十三節には、向かう倍力の徳を授けるとおっしゃっておられます。金光様の御信心を頂く者は沢山おりますし、何十年間朝参りを続けたという方達も幾人も私は知っとります。確かに、何十年という一つの信心が続けられるという事は、大した事ですけれども、確かに何とはなしにおかげを受けますね。もう何とはなしにおかげを受けとります。けれどもね、徳を受けとると思われない人が、まあほとんどというてよい位じゃないでしょうか。けれども、倍力の徳を授けると、ここではおっしっておられる。だから神様へ向かうという事でも、向かい方があるという事なんです。
それはもう一生懸命に神様へ向かう。いうならば、自分の全力を神様へ打ち向けて御祈念をする。やっぱり神様へ向かう事なんですけれども、成程、それでおかげを受ける事は確かなんですけれども、そんなら徳を受けとるとは思われないというようなのが多い。もう私はね、金光様の御信心はねおかげを受けるという事と同時に、もうお徳を受けなければ駄目。お徳を受ける為の宗教だというてもええ。お徳を受ける為に、教祖様は、天地金乃神様の御依頼を受けられた。
取り次ぎ助けてやってくれとおっしゃっても、取り次いでも本当の助かりにならんもの。御教えを私共が本気で頂かなかったら、こげなおかげを頂いた、こういう御利益を受けたというだけでは助かりにはならん。
天地の親神様の願いというのは、氏子のいわゆる、もう心からの助かり、真からの助かり。いわゆる心からの助かりと真からの助かり、これは心が助かるというだけでなくて、その心に当然の事として頂けれるおかげを真のおかげだとこう思う。真のおかげ。心が助かったというだけで、御利益が伴わなかったら、これはおかしい。
ですから私共が真の助かりを願わなければならん。そんなら神様に一生懸命参りさえすれば、そんなら参るだけじゃない、様々な表行等でもして、いわゆる火の行、水の行をしてでも、神様へ打ち向かうという事。
けれどもそれで、お徳を受ける事ではなさそうである。ここんところが、今まで頂いたところではなさそうですから、今日はよくよく頂かねばなりません。
打ち向かう事によっておかげは受けなさるけれども、徳を受ける事にはつながっていない。結局打ち向かい方が間違っていた。焦点が間違っているんだという事になる 昨日、善導寺の原昌一郎さんがお夢を頂いている。わかりやすく言うと、天地にたいするいうなら、借金がある。神様に対する借金がある。一万円借金を持ってる人、百万も千万も持ってる人、それう場合にはめぐりというふうに申します。
そこでそのめぐりの為に、難儀をする、苦労をする。神様へ一生懸命打ち向かう、そしていうなら、その借金払いの為に一生懸命になる。ところが、昌一郎さん不思議な事はね、神様にね、もう本当にめぐりが深いから、借金を沢山持っておるから、神様に対する借金払いを一生懸命させて頂いたという気になって、信心させてもらうとね、例えば、百万の借金をね、ようよう払えた時にはね、百万の徳を受けとるよと、もうこれは素晴らしい事だよと言うて話した事です。
だから金光様の信心でいう借金払いはね、借金払いが出来た時には、百万の借金払いが出来た時には、百万の徳を受けとる。一千万の借金を持ってる人が、神様に大して一千万の借金払いが出来た時には、もう、一千万円の徳を受けとる。してみると借金の多かった方がよかったと後で思う位。
これは私も思うです、まちっと修行が続いとったらと思うです。もうけれども仕方がない。神様からのいうなら、借金はこちらが百万の借金を負うとるとに、神様が二百万円もとりなさるはずはない。いうなら、だからめぐりが大きければめぐりが大きいだけ、おかげは大きいのであり、徳は大きく頂かれるのだ。これは昨日昌一郎さんが頂いた事。
最近お金はないけれども、店の改造をさせて頂こうかという話合いが親子でされよる。蓄えとてはさらさらない。それでもそこにはじめようかと、まあ親子で話合っておられる。そういう何とはなしの働きが周囲から起きておる。
そこでお取次を頂いたら、はじめたがよかろうという事であった。どんなに考えてもお金がないのに建築をはじめるというのですから。私は思うた。原さん達がいうなら、借金払いの信心修行、例えていうなら今の昌一郎さんが無い命を助けて頂いた。 もう本当に親戚の者は、お葬式の式服を持って来るという程にひどかった。誰あれも助かるという者はおらなかったのですから。もうそういう時にはね、医者の薬やら注射やらは神様が受けつけさせなさらなかったです。もういよいよという時に注射を取りにやったら違うとを持ってくる。いよいよ何回か目に注射を持って来たげなけれども、どっこいそれが割れたかこぼれたかで入らなかった。
というようにですねえ、受けつけされなかった。それが山でした。もう本当に原さんのお父さんは暑い時でしたが、もう月次祭を終わって、やれやれしとるところへ、それこそランニングシャツ一枚で駆け込んでみえました。
「私げの昌一郎は、半分は死んどります。半分はあきらめとります。先生、ほんなコツは言うて下さい」という事でした。
私が「ほんなこつば言うてどうするの。半分は死んどる。半分はあきらめとるならもう、それでしまえとるじゃないか。そげなこつ言わずに、あんた方の裏に(まだ、神様をお祀りしてなかったから)裏の畑に座り込んで、それこそ天地に縋りなさい」と。その翌朝お願いに見えた。まだ御祈念前に「おかげを頂いてすこ-し持ちなおしたごたる。どうぞ助けて下さい。」というお願いであった。
その時私は、こういうお取次ははじめてさせて頂きましたが「あんた達が一生御恩を忘れん為に信心を続けますというその誓約をもってね、神様にお取次させて頂こう」と申しました。どんなおかげを頂いたっちゃ、あんた達が止むるなら、止めたっちゃよかばいという姿勢ですけどね、普通は。
けども原さん達だけは私がそげん申しました。これははじめてです。もう一生助けて頂いて、御恩を忘れるような事は致しません。信心を止めるような事は致しませんというのが原さん達夫婦のその時の御返事でした。
そういうところを通っているのですから、無い命を助けて頂いて、しかも一人息子ですから、まあ二十何年の間にもそれこそ数限りない、もう本当におかげと言わなきゃおられないおかげの中に、いわば日々がおかげの中に、おかげ頂いて、そんならあげなこつば神様に約束しとったけんで、又参らじゃこてではなくて、もう現在のところでは、原さん一家の信心はもう参らなきゃおられんというところまで、信心が伸びていった。
日々有難い、本当にその日暮らしをさせて頂いておるけれどもです、そんなら、お金はひとつも貯ってはいない。いろ無いのである、実際は・・・・。
必要な時は必要に応じてまあ原さんの信心の程度ではあるけれども、娘さんが嫁入る時には、嫁入る時でちゃんとおかげ頂いてとるから、不思議です。どげん考えたっちゃ、そんなら宅祭りする時には、宅祭りするだけちゃんとおかげ頂くから不思議です。もう不思議と言うちゃならん。当たり前。
そういうところから、神様の絶対なものを段々、感じられるようになってきた。これは自分達が思い立ったつじゃない。周囲から原さんどうでんこうでん、いっちょ、店の改造したらどうかという話があっちこっちからあって、これは神様が言いござるとかもしれんけんでお伺いなっとしてみるかという事で、お伺いされた。
そしたらはじめたらよかろうという事であった。何故私がそういうかと言うと、息子の命を助けて頂いたという借金があるとするなら、それに対する借金払いがまあ出来たような感じがするから、私はよかろうとこう申しました。
もう百万円の借金払いが出来たなら、百万円の貯金が出来てる。神様の方にはと、私は信じたからそう申しました。その事をお夢頂いているわけです。
神様へ打ち向かう倍力の徳を授けると、これが徳になっておる。まあ打ち向方は様々あります。その打ち向かう事によっておかげを頂いておる。
そこでまあ私はその事を思わせて頂くならです、皆さんとひとつもかわらない打ち向かい方だったけれども、段々おかげを頂いて、そして今度は反対にもうにっちもさっちもいかんようになったと、親先生はもうその事で一生懸命お願いして下さったと 私も商人になりたいの一念でしたから、立派な大きな商売をさせて頂いて、大きな御用に立ちたいというのがもう願いでしたから。
ところが右と願えば左、左と願えば右という事になって、私が気づかせて頂いたのはです、神様の願いというのは一体どこにあるのだろうかという事になった。
これはひょっとするとです、私共がどうぞと商売繁昌願うたり、こうして下さい、ああして下さいと言いよるけれども、私のような者にでも、大坪総一郎にかけられる神の願いというのがあるに違いないと気づいてきたのです。
それから親先生にお願いの仕方が変わってきた。私に対する神様の願いがどうでもあるとしか思われません。そこで神様の願いが成就する事の為に私の上に、為にはどうな修行でも黙って受けようという事になってきた。
もう今から考えてみると、この考え方がいらばん間違ってなかったようです。その時分です、親先生がもうとにかく商売がにっちもさっちもいかなくなった私の事を、金光様にお届けになった。ある月参りの時に。
ですから「お繰り合わせをお願いします」とか何とかいう、お言葉だっろうと思うとったです私も。先生もそれを期待しておられたんです。そしたら、「お道の教師としておかげを受けられたら結構です」とおっしゃったからですね、もうびっくりしました。もう一生懸命の修行になって参りますとね、みんながやっぱあんた学院に行かにゃんとじゃろうと、金光様の先生にならにゃんとじゃろうとみんなが言いますけれども、これだけはもう絶対ないと打ち払いよった。もう親先生当たりの修行を見とりますからね、とてもあげな事は出来んと思うとりますから。
そしたら、もう、それこそ晴天のへきれきです。お道の教師としておかげを受けられたら結構ですと。それからやっぱ二十年近くですねえ。様々な問題があって教会にもならん、教師にもなれなかったけれども、その金光様の一言があったばかりに,私の信心は支えられたと言うてよかったです。
それからです、そんならば、例えば人がしたという修行ならどんな修行でもさせて頂こうという、修行に入り、それから神様へ打ち向かうというてもです、どうぞ大坪総一郎の願いが成就しますようにではなくてです、神様の願いが私にかけられるおるその願いが、成就致しますようにという願いになってきた。
だから今日私は、ここんところで思うのです。打ち向かう倍力の徳を授けるとおっしゃるのは、これだなと思うた。だからどうぞ、どうぞと言うてね、お願いだけの信心では、私はお徳を受けないと思う。何十年たったって。
それは願わなけれはおられん事ばっかりなのです。ですから、願わなければおられんし、又願う事を神様は待ってござる。
けれどもその願いがです、神様の願いが私の上に成就しますよに、いわゆる神の願いが成就になるという事です。そういう願いをもって、神様に打ち向かう時に、もうこれならば絶対、十の力で向かえば必ず二十の徳を受けるだろう。二十の力をもって向かうならば必ず、四十のお徳を受けると私はここのところを確信をもって皆さんに聞いて頂くのであります。
神は向かう倍力の徳を授けると、そうにゃ一生懸命参りござる。もう何十年とあちらは朝参りが続いとる。成程、それこそ神様金光様と言うて、何十年というて続くならね、もう何とはなしにおかげ頂くです。これはもう条件にゃ及ばんです。
金光様の信心を何十年と続けておる人達を見てごらんなさい。もう特別のこっちゃないけれども、もう何とはなしにおかげを受けとるです。止めれば仕方がないけれども続けておる限り受けますねおかげを。
けれどもそんなら、何十年続いとるというてお徳を受けてないところを見るとですそんなら打ち向かうと言うても、打ち向かう焦点、打ち向かい方があるんだと。
昨日も私、午後から丁度日曜たんびに吉井から、杉さんのおばあちゃんがお参りして来ます。七十九才になられるそうです。まあ元気でお参りされる。
それで信者控え室でお茶をあげておりました。上野先生と末永さん二人でお話相手をしよりました。そこへ私が出て参りましたからまあ一緒に。
そしたら先生方が次々と集まった、集まった、六,七人位集まりましたでしょうかいやぁ今日は先生ばあっかり集まってからと言うた事でした。もう、本当に一生懸命信心話をさせて頂いたんですけれども。
丁度最後にむつやの信司さんがやって来た。ははあ、やっぱ石井先生が参った来らっしゃったばいと言う事でしたけれども、信司さんここで、いっちょ考えにゃならん事はね、あんたがね、教会の娘を嫁御にもらわにゃならん程しにやっぱ、ああたんところはめぐりが深いとよ、と。だからね、もう金光様の先生になったと思うて、商売をしなさいと私が申しました。
もし私が商売を今するなら、そうにゃ繁昌するこつじゃろうと思う。もう金光様の教えを本当にそのままでお商売するのだから、もう絶対と私は思う位。というて、今さら私が商売人になろうというわけにはいけんけれども、信司さんいわばあんたは、金光様の先生にはなろうごとなかろうから、金光様の先生になったと思うて、教会から嫁御をもらわんならんという、そこんところに気づかせて頂いて、もう本気でね、道の教えに基づいて、お客さんが喜んで下さりさえすりゃよい。
道の教師が人が助かりさえすればよいのが、お取次の精神であるように、もうお客さんが喜んでもらやよいというね、ひとつ信心でやんなさいと言うて、まあお話した事でけすけれどもね。
いわゆる、そういう向かい方なんです。お商売をさせて頂くならです、どうぞむつやの大繁昌をと、だから願うてもいいわけです。
けれども、それはどこまでもお客さんが喜んで下さりさえすればよいという商売、それはそのまま神様が喜んで下さらんはずがない。と言うと神様が喜んで下さる為の商売になるわけです、だから。
お客さんが喜んで下さりさえすればよいという。そういう信心で向かうたら、もうこれは絶対お徳が受けられる。むつや呉服店が今日もどうぞ商売繁昌をと言うて願うそんならお道の教師になったと思うて、かんばれと私がその精神でお商売せろと、そんならもう絶対お客さんが喜んで下さる。神様も喜んでくださる。そういう向かい方ならば必ず倍力の徳を受けるという事です。
いうなら、算盤を捨てるという事。昨夜七時過ぎからでしたか、最近私が座っとって立つ時、右足のここがギクッとなる位とても痛むのてす。
それで昨夜の御祈念の時、その事をお願いさせて頂きよりましたらね、今黄いあやめがいっぱい咲いているでしょう。あの黄いあやめがね、もう花が枯れて、そして下から又、ちょっと小さい花が咲くでしょう。そういうところを頂いた。御心眼に。
どういう事かと思わして頂いたらね、先日からこれは私も随分歳をとったなあと、手に大分しわが出来とる。そしてからこう、どこかコケができよる。
いや、もう考えてみると、そうじゃろうと思うのです。こっちは若い気しょくでおるが、もう六十ですから。そういや私どんが若い時には六十の人と言や、もうおじいさんに見えよりましたですからねえ。
ほんにこっちだけはもう、若か気しょくでおるばってんか、もうほんに手にしわの出来るごとなった。こけの出来るごとなった。といつか私が言うた時のところを頂くのですよ。それでね、私はその時思いました。本当に段々歳をとっていくとですよ。 もうまず四十肩というて、肩がこっていったり、何とかくらみで目がうすうなったり耳が遠うたったり、歯が総入れ歯をせんならんごとなるのですよ。これはあの世へいく準備が一歩一歩出来ておるわけなんです。だからこれは私共が死ぬるまでです、死ぬるまで様々な、そんなら歳をとった為の故障というのは出来てくるわけなんです だからこの事はね、神様にしっかりお礼を申し上げねばいけないという事。
何の為に黄のあやめを頂いただろうかと後から考えてみたら、黄という色は、いつもまん中という時に頂くのです。おかげになるか、ならんかという中心の色です。
赤が信心の熱情とか、紫が安心とか頂くでしょう。色別で頂く時に、黄を頂いた時には、もう丁度まん中という時です。
ははあ、私共がお国替えのおかげを頂く時でもです、今中という気持ちであの世に行くのですよ。もう私はこれ頂いてから、素晴らしいという事をね、金光様の御教えというものは・・・・。
ですから目が薄うなりましたけんでどうぞとかね、歯が悪うございますけんでどうぞともう、それはお礼を申し上げねばならない事。しわが寄ってくるという事は、これは神様にお礼を申し上げねばならない事。
もう、あの世へ一歩、一歩近づかせて頂きよる、あの世への誕生が一歩、一歩近づかせて頂いておるしるしだから、お礼を言うてもいいわけです。
黄のあやめに花が咲いた。花が落ちた。しばらくしよると落ちた後に又、花が咲く 二度花が咲いたとよく言うでしょう。人間はそういう時があるのです。そうしながら、段々憔悴し枯れていくわけなんです。そして来年又芽が出てくる。いわゆるあの世への芽が出るわけなんです。ですからそれは、成長をとげておる姿勢なんです。腰が痛うなったとか、足が痛うなったとか、もう歳を頂かして頂いておるしるしなんだから、これは願う事ではない。お礼を申し上げるべきだと、私は夕べ気づかして頂いた。又その事を皆んなに聞いて頂いた。
だから神様に打ち向かうと言うてもです、お礼を申し上げねばならない事に、それが不平不足であったり、それが願いであったり、ではいけない事がわかりますね。
御礼を申し上げねばならない事にです、不平を思うたり、不足を思うたり、それが願いであっては、ではいけない、その事は御礼なのだ。だからそういう、当然御礼を申し上げねばならない事です。御礼を申し上げるような信心をもって、神様へ打ち向かう時に必ず、倍力の徳になると私は思うですね。
本当な事がわかって本当な事を願っておるわけですから。もう、六十にもならせて頂いたんだから、六十だけの健康を頂いておるという事、それをまあだ三十代、四十代のごとあろうなんてんというような事は、それに反する事なんです。
しかもあの世にお国替えのおかげを頂くその日まです私共は、その事のお礼を申し上げねばならない。成程、死にぎわにも願えとかとおっしゃるのはその事。ここで、願えという事は、死にぎわにも、お礼を申しせという事なんです。
成程、死ぬる時があの世とこの世の丁度まん中なのだ。成程、黄色のあやめももってお知らせ頂いたのは、その事だなあと思うのです。
そういう向かいかた、又は神様の願いが成就する事の為にです願う。又はお商売をさせて頂いておるならば、むつやさんに私は申しましたように、お客さんが本当に喜んで下さりすればよいという商売、それこそ金光様の先生になったと思うて、そういう生き方でいけと。それがお客さんの喜びがそのまま、神様の喜びになるから、そういう打ち向かい方なら必ず、倍力の徳を授けるというところをそういうふうに頂いたわけですね。そしてこれが徳を受ける決定版のように思います。
今までは、只、打ち向かいさえすればよいという、それはおかげであってお徳ではなかったと思うですね。
お徳を受けるという事は、神様の願いが私共の上に成就する事を願わせて頂くという信心、しかもそういう信心が神様に迫力をもって願われる時に、倍力の徳になって表れてくる。そして百万の借金があった、百万の借金払いが出来た、やれやれという時には、もうすでに百万の徳を受けておるという事をね。これはだから、私の信心体験からも言えれる事なんです。それを原昌一郎さんが頂いたお夢の中から聞いて頂きましたですね。
どうぞ。